今回はこんな記事からスタート。
Supremeは大人気ファッションブランドで、スケート(スケボー)やパンク、ヒップホップといった社会に対するカウンターカルチャーをベースに、若者の反骨心や叫びを代弁してきた。そうした「大人に楯突く」姿勢を若者は共感・支持し、人気ブランドになった。(もちろんファッション的なカッチョよさもあって)
しかし今回Supremeがルイ・ヴィトンというラグジュアリーなブランドとコラボしたことは、本来は楯突くべき「大人」に迎合したようにみえたことから、このような賛否両論の事態になったと思われる。
あくまでイメージだけど、一緒にヤンチャしてた仲間が、悪い大人に札束をチラつかされ、飼いならされてしまった的な感じか。
「お前、なんでそんな変わっちまったんだよ…」みたいな声がストリートから聞こえるような。(実際にルイヴィトンがそんな風に誑かしたワケではないと思うけど。)
目次
求められるポジションからの乖離
つまりは、若者がSupreme に求めてるもの(=ストリートの声の代弁者としての役割)と、ブランドの進んでる道とに乖離があり、Supremeファンからも「いやいやそうじゃないっしょ」という批判の事態になっちゃったと。
言い換えると「マーケットのニーズと作り手の想いがフィットしてない」ってことか。
んーただ、こういうことって、往往にして起きるのかなって思う。
というのも、ぼくはこれをコーヒーに置き換えても似たようなことが言えるのかなって想像した。
人が求めるコーヒー
それこそスペシャリティコーヒーだ〜、シングルオリジンだ〜、COEだ〜、ってサードウェーブ以降、コーヒー豆の産地や銘柄に注目し、素材の段階から品質を求めるのが珍しくなくなってきた。
また抽出方法も日々研究され、より美味しく淹れられる方法が考えられている
もちろん高品質の豆、効率的な抽出手法を用いることは、ウマいコーヒーを作る近道であり王道であることは間違いないと思う。
けれども、多くの人がウマいと感じるコーヒーとは、高品質・敏腕な抽出技術がなければ作ることはできないのか?って考えた時に、ぼくの答えは、否、だと思う。
というのもコーヒーというのは、本来は、ただの嗜好品で「所詮コーヒー、されどコーヒー」というのがぼくのコーヒーに対する考えだからだ。
インスタントコーヒーだろうが、カルディで売ってる豆だろうが、やさぐれた喫茶店で出てきたコーヒーだろうが、飲む人がウマいと思ったコーヒーを提供できたら、それが正解であり正義だと思ってる。
その場(店)に来た人がウマいと感じたコーヒーが一番。
【関連記事】
ウマいコーヒー=???
もし、そこをあえて作り手側が、「こんなに高品質の豆を使っているのに、ウマいと思わないのは、あなたがコーヒーの味をわかっていないからだ」としてしまうとしたら、それはちと傲慢かと思う。
というのも、そこは「マーケットのニーズと作り手の想いがフィットしてない」というだけで、たくさんの人に求められるウマいコーヒーを作りたいのなら、責めるべきは消費者側じゃないのかなあと。
まぁ上の例えは極端なんだけども。
コーヒーっていうのはそもそも嗜好品であって、そんな崇高なものじゃないと思ってる。
コーヒーを飲む人が皆、味にこだわりがあったり知識が豊富なわけではない(そうじゃない場合の方が多い!)ので、多くの人がウマいと思うコーヒーを探求するとなると、作り手が意識しなきゃいけないのは、マーケットが何を求めてるのかを考え、それにフィットしたコーヒーというのが、素材・技術云々を抜きにしてウマいとコーヒーなんじゃないかな。
これがマーケティングっちゅうやつか。
「わかる人にわかればいい」っていう考えもあるけど、それはもうアートとか自己満足の世界だと思うので、みんながウマいと思うコーヒーとはちとズレた玄人向けみたいになっちゃうよね。
さいごに
お店だろうが、ホームパーティのときであろうが、コーヒーを淹れるときは、飲んでくれる人が何を求めているのかを強く考えていきたいと思う。
なにするにも、頑固親父のラーメン屋みたいには、なりたくないなあ。
コーヒーって探求すればするほど奥が深いく沼みたいなんだけど、深追いしたとしてもおいしいものになるかというとまた難しく…うぅ...それがまた愛おしい…。
今回はストリートファッションからめちゃめちゃグイッといって、コーヒーのあり方について考えてみた。